以前に油屋本店跡をご紹介しましたが、別角度の画像や「油屋騒動」のお紺と孫福斎(まごふく いつき)の墓(比翼塚)のある大林寺(だいりんじ)などを2回にかけてご紹介します。
昭和初期に発行された絵はがき「伊勢古市 旅館油屋本店」の画像です。
油屋の先祖は近江国桂木郷(現在の滋賀県甲良町)の油の行商人で全国を廻っているうちに伊勢古市に足を止めることになったそうです。2代目のときに現在の油屋跡地(寒風)へ進出し、4代目のときには堂々とした妓楼(ぎろう)に成長していました。
同じ角度で撮影した現在の油屋旅館跡の画像です。写っている道路が古市街道で、画像手前のほうは陸橋になっていて下は近鉄鳥羽線が通っています。旅館跡地は線路敷設のために大きく削られ、残った土地には一般住宅が建っていて面影は全くありません。
陸橋の側に石柱が建っているのみです。
明治40年(1907年)4月8日のスタンプ印が押してある絵はがき「伊勢山田古市油屋旅館」の画像です。古市街道側と反対の西側から撮影した画像になります。
昭和46年に三重県郷土資料刊行会から発行された野村可通著「伊勢古市考」の199ページに「油屋は三千坪といわれた広大な土地が段々になっていて、その段々を巧妙に利用して宏壮な屋敷が建ち、宛ら城郭の如き風情があった」と記述されています。この画像は正しく記述どおりと言えますね。
「伊勢山田古市油屋旅館」と同じ角度で撮影した現在の画像です。画像左側の木々は大林寺の境内に生えているものです。
少し斜面を登ったところからの撮影です。ちょうど下りのビスタカーが通過しているところです。電車が通過する真上でかつては何千、何万人もの参拝客が遊び、そして油屋騒動も起こっていたのですね。
古市が全盛期だった寛政8年5月4日(1796年6月9日)に油屋で起こった9人が刀で殺傷された事件「油屋騒動」はわずか10日後には松坂の芝居で「伊勢土産菖蒲刀」が7月には大坂で「伊勢音頭恋寝刃」が上演され評判となり、明治以降でも上演回数の多い演目となっています。
伊勢古市 油屋旅館跡③に続きます。
出典:昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢古市考、wikipedia