町並みの今昔 神社港編

伊勢 神社港① 江戸から明治 御食神社 大崎屋 竹葉屋 柏屋

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現在の神社港 奥に見えるのは一色大橋

今回は勢田川(せたがわ)河口に位置する港町として成長し、明治半ば以降の陸上交通の発達に伴い衰微していった神社港(かみやしろこう)をご紹介します。

江戸時代の万治年間(1658~1661年)に港が築かれて以降、海を渡って伊勢参宮に来る、その海の玄関口として大いに賑わいました。三河や遠江の漁師達が参宮するときは何十隻もの小さな漁船に色とりどりの大漁旗を靡かせ、笛や太鼓で伊勢音頭を囃しながらこの神社港に入港するので、地元の人たちは彼らのことを「道者さん(どうしゃさん)」あるいは「どんどこさん」といって歓迎したといいます。

江戸時代の寛政9年(1797年)に刊行された伊勢参宮名所図絵にある「神社港」の画像です。図に描かれている「御食社」は現在の御食神社(みけじんじゃ)で外宮の摂社になります。

御食神社の表参道の画像です。橋や堀、社殿の位置は江戸時代から変わりません。参道沿いに斜めに生える黒松も伊勢参宮名所図会に描かれていますね。

明治20年(1887年)頃に発行された「御参宮道中記」の山田から神社港の画像です。神社港の項には出舩所「大崎屋九右衛門」とあり、宮川、山田、古市に出張所があったようです。

神社港は明治時代になって益々栄えて、特に伊勢湾に蒸気船による定期船が開かれた後は愛知県や静岡県など各地からの参宮客が殺到する黄金期を迎えます。明治22、3年頃には貸座敷11軒、料理屋4軒、飲食店5軒、旅館7軒、髪結店8軒、劇場1軒が軒を並べたそうです。

海岸通りにあった大崎屋跡の現在の画像です。昭和の中頃までは営業していたと思われます。

明治25年(1892年)改正の一新講社に貼られている引札「伊勢神社港 旅人宿 竹葉屋」の画像です。東京、横浜、津、四日市、熱田、熊野、大阪などに蒸気船が出ていました。

明治22年に国府津駅(小田原市)ー浜松駅などが開業し、新橋駅と神戸駅が鉄道で結ばれましたが、この時点で三重県内の鉄道は未開業でした。明治23年2月に三雲(滋賀県)ー柘植駅間開業(現在のJR草津線)を皮切りに同年12月に四日市ー柘植間、明治24年に亀山ー津間、明治26年に津ー宮川駅間と着々と鉄道網が伸びてきます。

明治27年に四日市ー桑名間、明治28年11月に弥富ー桑名間が開業し、名古屋方面から宮川駅まで全通しました。そして明治30年(1897年)に宮川駅ー山田駅(現在の伊勢市駅)間が開通し、遂に全国各地と伊勢市(当時は宇治山田町)が鉄道で結ばれました。

明治40年(1907年)2月に尊法社から発行された「新編 伊勢参宮案内」の神社港の項の画像です。汽船の行き先と運賃が掲載されていて神社港ー熱田間が40銭になっています。同じく明治40年5月に参宮鉄道運輸係から発行された「参宮案内」に記載されている鉄道運賃は神社港ー熱田とだいたい同じ区間の山田駅ー名古屋駅間が86銭なので汽船と比較するとかなり割高です。よってこの頃でもまだまだ汽船の需要は高かったのだと思われます。

旅館は5軒記載されていて、上記引札の竹葉屋(たけはや)の名前もあります。前ページには「7、8軒の娼家(しょうか)もある」と記載されていますので、貸座敷もまだまだ賑わっていたのでしょう。

明治42年改正の三日市大夫次郎発行の御師講社の表紙の画像です。

御師講社の内宮から神社のページの画像です。神社の項には「汽船問屋 柏屋彦助」とあります。柏屋旅館は最近まで営業されていました。

旧本通り沿いにある柏屋旅館の現在の画像です。2年ほど前に主人が亡くなり廃業されてしまいました。

次回、伊勢 神社港②に続きます。

出典:明治40年 尊法社発行 新編 伊勢参宮案内、明治40年 参宮鉄道運輸係発行 参宮案内、昭和4年 日本随筆大成刊行会発行 日本図絵全集伊勢参宮名所図絵、昭和58年 古川書店発行 中川竫梵著 増補伊勢の文学と歴史の散歩、wikipedia

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