令和4年5月2日の12時50分(大潮の干潮)ころに撮影した夫婦岩(めおといわ)の画像です。この日は天候も穏やかで海水も透き通り絶好の撮影日和でした。
近づいて遙拝所付近からの撮影です。夫婦岩の大岩の方は男岩・立岩(たていわ)、小岩の方は女岩・根尻岩(ねじりいわ)とも言われ、両岩が「夫婦岩」と呼ばれるようになったのは明治以降のことであり、それまでは総称して「立石(たていし)」、親しみを込めて「立石さん」と呼ばれたそうです。
昭和4年(1929年)に日下伊兵衛から発行された「伊勢参宮地図」の二見浦付近を拡大した画像です。この地図では夫婦岩ではなく立石となっています。昭和初期までは立石と夫婦岩両方の名称が使われていたようです。
明治43年(1910年)5月9日のスタンプ印のある絵はがき「伊勢二見浦夫婦岩(禊斎場)」の画像です。この画像の撮影も干潮時で参拝者が磯に下りています。大岩は高さ9mで周囲が44m、小岩は高さ4mで周囲が10mになります。
夫婦岩は700m先の海中にお鎮まりになる猿田彦大神ゆかりの霊石である「興玉神石(おきたましんせき)」と岩の間から登る「日の大神」を拝する鳥居の役割を果たしており、日の出の遙拝所でもあります。大岩と小岩を結ぶ大注連縄は「結界の縄」と称され、夫婦岩の向こうを海の彼方から常世神が寄りつく聖なる場所とされてきました。
夫婦岩は昔も今も姿を変えていないと思いきや、この「伊勢二見浦夫婦岩(禊斎場)」の画像をよく見ると何か違和感が・・・。
改めて現在の画像を拡大してみると、小岩の括れが無くなり周りが防波岩で固められています。
大正2年(1913年)7月に二見浦保勝会から発行された「二見名勝誌」に掲載されている「二見浦夫婦岩(立石)」の画像です。この画像も小岩の方は現在とは違います。
大正8年(1919年)2月に溝口房吉発行の「伊勢名所写真帖」に掲載されている「伊勢二見浦立石(夫婦岩)」の画像です。明治43年、大正2年発行の画像より少し北側から撮影されているようで、小岩の括れがよく分かります。
なぜ現在と小岩の姿が違っているか?答えはこの「伊勢名所写真帖」が発行される直前の大正7年9月24日に襲来した台風により小岩が根元から折れてしまったことによります。
次回、台風により折れてしまった女岩の修復についてなどの夫婦岩 立石②に続きます。
出典:大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、大正8年 溝口房吉発行 伊勢名所写真帖、二見興玉神社ホームページ