二見浦にある夫婦岩を海に突き出た防波堤の上から撮影した画像です。この位置からですと二見興玉神社の社殿などは見えません。
同じく防波堤の上から二見興玉神社の表参道入口付近を撮影した画像です。中央に写る大きな建物はお土産物屋の夫婦岩ニューパークさんになります。現在、夫婦岩ニューパークさんのある場所には明治後期から大正前期にかけては「旅館 山本屋」が存在しました。
大正7年(1918年)以前に発行された絵はがき「伊勢二見浦旅館山本屋」の画像です。川の左岸に建っていて、それほど大きくなく数部屋規模の旅館でしょうか。現在でも川はありますが道路・駐車場のために埋め立てられ、大きな水門が造られています。
「伊勢二見浦旅館山本屋」の宛名面の画像です。掛け線が1/3のところにあるので大正7年4月以前発行になりますね
こちらも同タイトルの絵はがき「伊勢二見浦旅館山本屋」の画像です。宛名面の印刷も同じですので元々セットだったのかも知れません。
2枚目の「伊勢二見浦旅館山本屋」と同じ角度で撮影した現在の夫婦岩ニューパークさんの入口の画像です。画像右側の波トタンの下から水門にかけて道路の下を川が流れています。
波トタンの裏側の画像です。トタンで目隠しされていますが、きれいな水が流れています。
二見浦の茶屋のおこりは天正年間(1573年~1592年)以降だと云われ、承応3年(1654年)の江村年寄の訴状によりますと初めにできた茶屋が「宇治茶屋」で承応3年時点で4代目でこの山本屋跡、現在の夫婦岩ニューパークさんの辺りにあったそうです。
前回の紅葉館跡でご紹介したホテルキャッスルイン伊勢夫婦岩さんの道路の反対側に「かどふさ」さんという土産物屋があり、その建物に「二見浦ものがたり」という案内看板が設置されていて、そこに「元治元年(1864年)の旅館茶屋の位置図」があります。
「元治元年(1864年)の旅館茶屋の位置図」の画像です。江戸時代から明治の前半にかけての茶屋街の中心は現在のお福餅本店、赤福二見支店、松風軒の辺りになり、画像の下の方「野中屋」が現在の「喫茶のなか」、4軒上「内宮屋」の場所が現在の「赤福二見支店」、その右上「吉野屋」の場所が現在の「松風軒」になります。
さらに右側に「山本屋」とありますので、元治元年時点では「山本屋」はこの場所で営業していたと思われます。
明治38年(1905年)に新道が完成して旧茶屋街から現在の旅館街に移動が始まり、山本屋もこの頃に興玉神社の入口前に移転したのではと推測されます。山本屋の場所にはその後、臨海楼ができますが次回ご紹介いたします。
出典:かどふさ設置案内看板 二見浦ものがたり