旧熊野街道

熊野街道(熊野古道・伊勢路)④ 三瀬砦跡 清滝 三瀬館跡 船木橋

熊野街道(熊野古道・伊勢路)③の続きになります。下三瀬(しもみせ)入ると、古道は「三瀬の渡し」で宮川を渡り多岐原神社に辿り着きますが、現在は舟木橋を渡り迂回する形になります。

旧街道(県道770号線)を進むと「三瀬砦跡」の看板が見えてきます。

矢印どおり、左に入ると砦の土塁跡があります。

虎口の横には立派な石標が建っております。三瀬砦は室町時代から戦国時代に築かれたとされ、北畠氏の家臣である三瀬氏の居城であったと云われています。

砦内の画像です。鳥居をくぐると杉木立の中に苔の参道があり、奥の土塁上には武士の守護神である八幡社(はちまんしゃ)が祀られています。

三瀬砦跡から100mほど進みますと大谷橋(おおたにはし)に差し掛かります。

大谷橋を渡って少し進みますと「大谷不動明王」の入口があり、その横に2、3台分の駐車スペースがあります

鳥居をくぐり、つづら折りの参道を降りるとお社があり、その目の前には「清滝」という美しい滝があります。少し見にくいのですが、滝の上方に見えるのが大谷橋です。橋の上を渡っているときには想像もつかない景色です。

次は「三瀬館(みせやかた)跡」を目指します。大谷不動明王の入口から200mほど進みますと案内標のある三差路があり、右折しますと「三瀬館跡」方面になります。

国道42号線との上三瀬バス停前の交差点を横切り、細い道を案内標どおりにクネクネ進みますと到着します。

「三瀬館跡(みせやかたあと)」の案内看板と石標です。永禄12年(1569年)に織田信長は伊勢国司である北畠具教・具房父子と戦い、大河内城(おかわちじょう)に追い詰めました。和睦の条件として信長は次男・茶筅丸(ちゃせんまる、後に北畠具豊→北畠信意→織田信雄と改名)を具房の妹と婚姻させ、北畠家の養嗣子(ようしし)とさせました。翌年、具教は出家して三瀬館(三瀬御所)に隠居しました。

三瀬館の石垣

元亀3年(1572年)に茶筅丸は元服し北畠具豊(ともとよ)と改名し、天正3年(1975年)には具房も隠居に追い込み、具豊は北畠家の家督を相続し信意(のぶおき)に改名しました。天正4年11月25日、信長・信意親子は家臣に命じて三瀬館を攻撃し、具教と二人の子、家臣14名を殺害しました。同じ日に田丸城でも信意自身が長野具藤ら北畠家一族を殺害しました。この事件を「三瀬の変」と呼びます。

旧街道に戻り、三瀬谷駅・大台町役場を過ぎたところで宮川を渡りますが、この橋が国の有形登録文化財にも指定されている「船木橋(舟木橋)」になります。画像の右側に見えるのが国道42号線の「船木大橋」になります。

船木大橋からみた「船木橋」の画像です。船木橋は明治38年(1905年)に竣工し、昭和9年(1934年)に木橋が鉄橋に架け替えられましたが、レンガ造りの橋脚部分は明治期のものを使用しております。

船木橋の上から宮川の上流方面を撮影した画像です。なかなかの絶景ですね。画像の奥に見える緑色の橋はJR紀勢本線の鉄橋になります。

出典:三重県ホームページ、wikipedia

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