町並みの今昔 道路編

御幸道路沿いの風景② 錦水橋 光明寺の一つ鐘 結城宗広

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前回の外宮前起点から伊勢市役所までをご紹介した御幸道路沿いの風景①の続きになります。

料理旅館 恵宝屋でもご紹介した、大正初期に発行された絵はがき「旅館和洋御料理 恵宝屋」の画像です。恵宝屋は明治から昭和初期にかけて箕曲(みの 現在の宇治山田駅付近の小字名)にあった和洋料理旅館です。

恵宝屋は現在の近鉄鳥羽線の高架下辺りにありました。画像の奥に見える赤い近鉄の看板のところが宇治山田駅です。

明治末期から大正初期の間にMATSUMOTOから発行された32枚組の絵はがきセット「伊勢名勝」のうち「山田錦水橋(外宮御山遠望)」です。外宮御山遠望とサブタイトルがついていますが、画像の奥に見えるのが外宮の南側にある高倉山です。

錦水橋(きんすいばし)は明治36年(1903年)8月に倉田山に開館予定の神宮徴古館への道路として勢田川(せたがわ)を跨ぐ新しい橋として架橋されました。

昭和初期に発行された絵はがき「街路清浄なる御幸通り錦水橋付近の景趣」の画像です。この画像は少し色彩が施されています。

「山田錦水橋(外宮御山遠望)」と比較すると画像の左にある街路樹が成長していますね。

現在の錦水橋の画像です。「街路清浄なる御幸通り錦水橋付近の景趣」の橋の欄干がピンクっぽく色彩されていますので、当時からピンクに塗られていたのでしょうか。

大正初期までに発行された絵はがき「伊勢山田 光明寺の一ツ鐘」の画像です。

古来、伊勢神宮の周辺では梵鐘(ぼんしょう)を突くことが禁止されていましたが、天正年間(1573~1592)に当時の寺僧が郡宰・上部越中守貞永に愁訴し、豊臣秀吉から朱印状を得て光明寺のみが鐘を突くことを許されました。そして明治維新まで神宮周辺で唯一鐘楼を有したことから「光明寺の一つ鐘」と呼ばれました。

「伊勢山田 光明寺の一ツ鐘」より少し右寄りから撮影した現在の画像です。光明寺の所在地は御幸道路を挟んだ伊勢郵便局の反対側付近になります。

画像の奥に見えるのが光明寺の山門です。現在では御幸道路から鐘は見えません。

現在の光明寺の鐘楼の画像です。見にくいのですが、鐘の奥に見えるのが本堂の屋根です。

鐘楼の前には南北朝時代の武将である結城宗広(1226~1339)の墓があります。宗広は白河結城氏の2代目当主で当初は鎌倉幕府の家臣として陸奥国南部の政務を任されていました。

鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)に起きた元弘の乱で後醍醐天皇は鎌倉幕府に捕らえられ、翌年に隠岐の島に流されました。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐の島から脱出して挙兵し、これを鎮圧するため幕府から派遣されたのが足利高氏(のちの尊氏)でした。幕府軍を率いて上洛した高氏でしたが後醍醐天皇方に味方して六波羅探題を滅ぼし、その直後に結城宗広も後醍醐天皇に味方して新田義貞と共に鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府を滅ぼしました。その功績により宗広は後醍醐天皇から厚い信任を受けて、北畠顕家と共に奥州方面の統治を任されました。

結城宗広像 天保7年(1836年)蒲生羅漢 筆

建武2年(1335年)に建武の新政を開始した後醍醐天皇とその偏諱(へんき)を与えられ改名した足利尊氏との間で建武の乱が起き、翌年に後醍醐天皇は降伏し建武政権は崩壊しました。尊氏は光明天皇を擁立(北朝)し、吉野へ逃れた後醍醐天皇は南朝を開きました。

南朝と北朝の戦いは続き、延元3年(1338年)、結城宗広は共に戦った北畠顕家が戦死すると後醍醐天皇のいる吉野に逃れました。その後、宗広は南朝の再起のために後醍醐天皇の皇子・義良親王(のりよししんのう、後の後村上天皇)を奉じて北畠親房らと共に伊勢国大湊(伊勢市大湊)から海路で本拠地の奥州へ向かいましたが遠州灘で遭難しました。

漂着地、死没地は軍記物語「太平記」では伊勢国安濃津(三重県津市)という伝説が著名ですが、実際は伊勢国篠島(現在の愛知県知多郡篠島、慶長元年より尾張国に所属)に漂着しました。数日後に義良親王に伴って篠島から大湊へ戻り、そして光明寺に滞在しました。当時の光明寺は南朝方の拠点として使われるほどの巨刹(きょさつ)で、説明看板によると境内地は4110坪だったそうです。

伊勢市駅と吹上交差点との間にある播田屋吹上店の裏側にある吹上公園の画像です。

光明寺は元々、この辺り一帯にありましたが、寛文10年(1670年)11月に起きた山田の大火(寛文の大火)で類焼し、そして天和元年(1681年)に山田の大火に関係したものか山田奉行の命令により現在地の岩淵に移転しました。

吹上公園にある光明寺跡の説明看板の画像です。

宗広は光明寺に入って間もなく病を患い、そのまま同地で没したそうです。

出典:三重県ホームページ 三重の歴史・文化散策マップ、昭和4年 宇治山田市役所発行 宇治山田市史 下巻 1551P、昭和8年 桜関書院発行 諸根 樟一著 結城宗広大勤王論、wikipedia

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