NHKの大河ドラマ「べらぼう」は最終版に突入し、益々面白い展開となっています。その主人公、蔦屋重三郎が活躍した天明年間(1781年~1789年)頃に古市は最盛期を迎え、妓楼70軒、遊女1,000人、浄瑠璃小屋も数件という賑やかさでした。今回は古市遊郭を時代に沿った出来事などとリンクさせながら紹介していきます。


天保8年(1837年)発行の粋山人偏「古市細見記(ふるいちさいけんき)」の画像です。
吉原遊郭の案内書「吉原細見」は古いものは貞享(じょうきょう、1684~1688年)年間から知られ、享保(きょうほう、1716~1736年)頃に盛んになりました。元文3年(げんぶん、1738年)以降は鱗形屋(うろこがたや)と山本の2版元が年2回刊行し、宝暦8年(1758年)までで山本は手を引きました。
蔦屋重三郎は安永3年(1774年)7月に初めて版元としての出版物になる遊女の評判記「一目千本」を刊行し、翌年には同じく遊女の評判記「急戯花の名寄せ」を刊行しました。同年秋からは鱗形屋に代わって、自ら「籬の花(まがきのはな)」と題した吉原細見(よしわらさいけん)を刊行し、「蔦屋」の版元としての地位を確固たるものにしました。
この田沼意次時代(1767~1786年頃)の宝暦・天明文化は商業経済の発展を背景に歌舞伎や浮世絵などの町人文化が花開き、古市も発展したのでしょう。

筆者所有の三代歌川豊国画、油屋おこん他、三枚続きの浮世絵の画像です。
古市が全盛期だった寛政8年5月4日(1796年6月9日)に遊郭油屋で9人が刀で切られ、3人が死亡する「油屋騒動」という事件が起きました。この事件はお伊勢参りにきた参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で大繁盛したそうです。またこの事件を題材にして、わずか10日後には松坂の芝居で「伊勢土産菖蒲刀」が上演され、7月には大坂で「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」が上演され、評判となりました。

寛政9年(1797年)に刊行された「伊勢参宮名所図絵」のうち「間の山(あいのやま)」の画像です。間の山は外宮と内宮の間にある山という意味で、古市の遊郭街も含みます。
油屋騒動が起きた翌年の刊行になり、この年に蔦屋重三郎は没しました。

文化3年(1806年)に刊行された十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本「東海道中膝栗毛」の五編、「千束屋(ちづかや)で遊ぶ弥次喜多一行」の画像です。古市にあった千束屋で遊んだ弥次さんが面白おかしく描かれています。
千束屋の女主人であった「りと」は文化2年(1805年)に山田奉行の許可を得て、千両余りを投じて牛谷坂(うしたにざか)の改修し現在の様になりました。千束屋は文化5年(1808年)に妓楼を廃業し、貸衣装屋に転業しました。

古市細見記にある油屋清右衛門の項を含む画像です。油屋騒動から40年余りが経った頃になります。冒頭の説明画像にもあるように油屋の上に立鼓(りゅうご)のような記号があり、妓楼の中でも最も格式の高い「大見世(おおみせ)」であることを示しています。


古市細見記にある備前屋小三郎、杉本屋彦十郎の項を含むそれぞれの画像です。いずれも油屋と同じく「大見世」であります。江戸時代末には江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭、或いは大坂の新町、長崎の丸山を足して五大遊郭に数えられました。

筆者所有の明治21年(1888年)刊行の「伊勢古市 備前屋桜花楼 踊之図」の画像です。明治時代になり、洋服を着たお客も描かれています。
明治5年(1872年)に明治政府が「芸娼妓解放令(げいしょうぎかいほうれい)」を出されました。同令と「前借金無効の司法省達」により前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放されました。ただ両令は売春そのものを禁止しておらず、貸座敷として届けた妓楼で自由意思に基いて個人的に契約をして遊女に戻ったりすることに障害はありませんでした。明治5年の時点で古市には貸座敷33軒、娼妓640人がいたそうです。
伊勢 古市遊郭②に続きます。
出典:Tokyo Museum Collection 、三重県立総合博物館ホームページ、昭和10年 三教書院発行 東海道中膝栗毛 下、Wikipedia
