
明治26年(1893年)6月に三重日報社から発行された「三重県下商工人名録」の宇治山田料理旅館の項の画像です。右から2番目に「料理店兼旅館 外宮ヨリ一丁前一志久保町 きう可ゑん」とありますが、吸霞園(きゅうかえん)のことになります。今回はこの嘗て外宮北御門の北側、約100mの辺りに存在した吸霞園をご紹介します。

明治29年(1896年)11月に小柳津篤太郎から発行された「神都土産繁昌記」に掲載されている「旅館 吸霞園」の広告の画像です。伊勢山田一志久保町とありますが現在の伊勢市一志町になります。
明治44年(1911年)に東京人事興信所発行された「旅館要録 明治44年後期 増補改訂」によりますと開業は明治9年(1876年)で「和風平屋建」と記載されています。

明治39年(1906年)11月に交益社から発行された「伊勢参宮案内記」に掲載されている吸霞園の広告の画像です。この広告では「二見 松坂屋支店」の記載がありますので、この頃までに二見浦に支店を開業したのでしょう。この松坂屋支店は現在でも営業されている「松坂屋 吸霞園」さんになります。

昭和5年(1930年)6月に敬神教育会発行の「伊勢参宮」に掲載されている吸霞園の広告の画像です。

昭和8年頃に発行された絵画研究書印刷工芸社印刷の6枚組の絵はがきセットのうち「吸霞園 玄関」の画像です。「伊勢参宮」の画像と比較すると玄関が改築されていて、右側に離れ?が建てられています。さらに右側の門柱の後ろには幹模様(幹が曲がっている)がある立派な松が植えられ、門柱より外側が板垣から竹垣に変わっています。

6枚組の絵はがきセットのうち「吸霞園 玄関 茶室の一部 庭園の一部」の画像です。庭園には鶴の置物も置かれていて、茶室もあったのですね。

6枚組の絵はがきセットのうち「吸霞園 大広間 大広間舞台」の画像です。写っているだけでも60畳以上はある舞台のある立派な大広間です。
昭和61年(1986年)8月に株式会社国書刊行会から発行された「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣」の「一志町旅館割烹吸霞園」の項には「戦災を免れた数少ない建物の一つである。然し、戦後都市計画に大きな道路が玄関前を斜に横切り、風格ある玄関前のところはすべて削りとられてしまったのが惜しまれる。」と記載されています。

大正9年(1920年)頃に撮影された絵はがき「山田駅付近空中写真」の画像です。画像上が南で、タイトル辺りが外宮になり、真ん中やや右寄りの四角い杜が月夜見宮になります。

外宮と月夜見宮の間を拡大した画像です。水色で囲んだ辺りが吸霞園となり、真ん中の黒い部分が庭園にあたると思われます。

昭和23年12月に撮影された空中写真の外宮と月夜見宮の間付近を拡大した画像です。この時点で月夜見宮の西側には現在ある広い道路が整備されていて、吸霞園の庭園付近は削りとられています。

現在の吸霞園跡の画像です。西井耳鼻咽喉科の左側(南側)にある月極駐車場辺りが吸霞園の建物があった場所になり、手前の道路が庭園跡になります。
出典:明治26年 三重日報社発行 三重下下商工人名録、明治29年 小柳津篤太郎発行 神都土産繁昌記、明治39年 交益社発行 伊勢参宮案内記、明治44年 東京人事興信所発行 旅館要録 明治44年後期 増補改訂、昭和5年 敬神教育会発行 伊勢参宮、昭和61年 株式会社国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣、国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
