
昭和10年(1935年)ころに明野陸軍飛行学校(現在の明野駐屯地 陸上自衛隊航空学校)から発行された5枚組の絵はがきセットのうち「空中写真(飛行機上より撮影せる明野陸軍飛行学校の斜写真)」の画像です。
大正10年(1921年)3月に陸軍航空学校条例改正が施行され、同年4月に陸軍航空学校明野分校として開設されました。大正13年(1924年)5月に陸軍飛行学校令が施行されたことによって明野陸軍飛行学校として独立しました。

5枚組の絵はがきセットのうち「編隊飛行中の戦闘機」の画像です。

昭和10年4月の消印がある絵はがき「陸軍航空学校射撃班の全景(明野ヶ原)」の画像です。
陸軍飛行学校令第3条により明野陸軍飛行学校は空中戦闘、空中射撃および火器の取扱い等に関する諸学術の教育と調査および研究を行い、ならびにこれらに関する器材の調査、研究および試験を担当することとなりました。

5枚組の絵はがきセットのうち「明野陸軍飛行学校正門」の画像です。1枚目の空中写真を見ると現在の正門と同じ場所になります。

現在の正門の画像です。

5枚組の絵はがきセットのうち「九二式戦闘機」の画像です。九二式戦闘機は川崎の開発・製造で、昭和7年(1932年)に陸軍に制式採用されました。第一戦を退いた後は練習戦闘機として利用され、昭和10年(1935年)ころまで運用されたそうです。

5枚組の絵はがきセットのうち「九二式偵察機」の画像です。九二式偵察機は三菱重工の開発・製造で、初めて純国産のエンジンを搭載した軍用機になり、昭和7年に制式採用されました。昭和9年(1934年)に中島飛行機の九四式偵察機が制式採用・配備されると前線から急速に引き上げられました。

昭和15年11月に朝日新聞東京本社から発行された航空朝日11月号に掲載されている記事「明野陸軍航空学校見学記」の画像です。説明文によりますと櫓の上にいる人々は教官のようです。

同じく「明野陸軍航空学校見学記」の記事のうち「「あ、あいつの着陸ぶりはどうだ。・・・」と戦友の練習に身を入れる飛行学生」の画像です。絵はがきには無いリアルな場面ですね。

同じく「明野陸軍航空学校見学記」の記事のうち「機の胴体には赤白青などで線を入れ、遠くからみて一眼で誰がのっているかが分るようにしてある。写真は翼張る精鋭機と地上勤務員」の画像です。
昭和19年(1944年)6月に明野教導飛行師団に改編、昭和20年7月18日第一教導飛行隊に改編され、ポツダム宣言受諾により同8月29日に部隊は解散されました。

明野駐屯地の南側から撮影した現在の画像です。昭和30年(1955年)8月に明野陸軍飛行学校跡地に陸上自衛隊明野駐屯地が開設され、航空自衛隊浜松基地から移駐した陸上自衛隊航空学校が置かれています。
明野駐屯地では毎年、航空祭が行われていて今年は明野駐屯地開設70周年記念行事として11月22日(土)に行われる予定です。
出典:明野駐屯地陸上自衛隊航空学校ホームページ、昭和15年 朝日新聞東京本社発行 航空朝日11月号、Wikipedia
